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義父母を看取って

こんばんは!
いつもブログに遊びに来てくださりありがとうございます。

ブログでの発信は、割と自由に書いています。
過去のことも今も、いつか振り返るとそれは財産。

ブログって紙に書くわけではないのですごく効率がいいなと感じます。
(容量は取りますけれど…消したくなったらすぐに消せばいいしね。)

今、じつは100記事目標に書いています。あと少し♪

さて、私事ではありますが
先日、10年一緒に暮らした義母が亡くなりました。

ご存じの方もいらっしゃると思いますが
3月に義父も急な出来事でしたが他界しました。

実は、1年半前(丁度、私が活動のために起業コンサルに申込み、頑張ろうとしていた時)に
義母の病気が発覚し、緊急入院し、オペをしました。


夏ごろから異変を感じていたけれど、通っていた開業医では
検査しつつも精密検査までといかなかったため、きっと見落とされていたんだと思います。

お正月明けていよいよ、お腹の痛みがひどくなったので紹介状を持って大きい病院を受診。

病名は、大腸がんでした。
そのまま入院となり、オペによる切除。
しかし、その一部がすでに肺に転移していて
ステージ4の状態。

まだ、78歳。
人生100年時代と言われる今、がんも治る時代。

抗がん剤治療を頑張ることを決意。

しかし、抗がん剤というのは何種類も型があって、
その型がその人に合致しなければ、効果を発揮しづらいそうです。

そして、義母の場合は合うモノがなかったそうです。
年齢もあったのか、セカンドオピニオンも勧めましたが
もう、「自分も歳だし」と、言い、そのままで治療することに。

そして、あまり合わない型での抗がん剤治療がスタート。
(私も詳しくわからないのでこんな説明で済みません。)

きつめの治療は、日常生活をきたすほどの副作用がありました。
何度も吐いていました。

それでも、しばらく続け、食事もままならないけれど
少しがん数値も低下して、喜びました。
やっぱり副作用がきつすぎて、これではずっと寝たきりみたいになるからと
一段緩めのモノに変えてもらい、治療を続けました。

そのおかげで、日常生活に戻り、ご飯もおいしく食べられるようにまで
回復したものの、がん数値はまた上がってしまいました。

治療に耐え、がんと闘うか
もう将来の覚悟を決めて、今人間らしく過ごすか

どちらを選ぶかは義母次第。

家族や義父である夫の意見も聞いてはいましたが
本人が出した結論は後者でした。

「もうまやちゃん、何にも言わんといて」

といつも言っていたのを思い出します。

私も、それ以上は何も言えなかったです。。。

だんだん癌による痛みが出てきたり
日が変わると調子が良くなったり悪くなったり。

そんな義母をずっと横で支えていたのは夫である義父でした。
同居していたにもかかわらず、義父が側で支えていてくれたので
息子である夫も嫁である私も、そんなに普段とは変わらない暮らしでした。

いろんな人からもずっと
「お義父さんお義母さん、若いよね!元気よね!」
とよく言われていたけれど

でも、高血圧の持病を持っていた義父。
水面下で疲れなどもあったのでしょうか?

いきなり3月に倒れそのまま帰らぬ人となりました。
急性心筋梗塞でした。

突然の悲しみに襲われ
義母も落胆してしまい、しばらくは食事もままならず
点滴に通院する日も増えました。

義母をサポートしてくれた義父も疲れていたのかな…
義母は「先に逝ってしまうなんて~」と泣いていたのを見るのはつらかったですね。

実はもうその時点でも義母は余命を宣告されており、
「自分が先に逝くから」といろいろなことの手続きをしたりも準備されていました。

お義父さんが亡くなってから、落ち込みましたが

同じころ、余命の残りを宣告されました。
本人には伝えませんでしたが、うすうすわかっていたようでした。

夫の兄である、義兄が有休を先取りして、泊まり込みで
義母に付き添ったりしてくれ元気づけてくれました。

一時期は食欲も戻り、末っ子の幼稚園のバスを見送ってくれたり
筋力落ちちゃうからと体操をしたりと体を動かしたり…

でもそんな義母も4月後半から急変。
急に食事がとれにくくなり、点滴処置を訪問看護の方にお願いしたり

往診に来てくださった先生が
「もう病院へ入院しませんか?」

と言ったときに、義母は泣きながら
「家におりたい」
と言ったそうです。

それを聞いて、夫や義兄は最期の時まで協力して
家で過ごせる環境を整え、訪問看護、介護認定、ベッドの手配など
いろいろ準備してあげていました。

私と言えば、身の回りのお世話をしたり(そんなにたくさんはしていないのです)
変わってお部屋の掃除をしたり、簡単な食事を用意したり
義母に変わって仏事のことをお手伝いしたり

二人に比べたらなんにもできていませんが
少しでもお手伝いができればという姿勢でした。

しかしG.Wに入るころから、さらに容体が急変。

足のむくみがひどくなり、歩きにくくなり
食事もとれなくなり、口からの投薬も難しくなり
栄養と痛み止めの点滴の毎日。

排泄も、ベッド脇に簡易トイレを設置するも数回しか使わないまま
紙おむつを使うことになり、と一日一日を追うごとに…

もうここ数日の様子はちょっとかけません。

でも最期までしっかり意識を持っていて
話せなくても意思表示をしてくれて
もどかしく歯がゆかったと思います。

家でサポートして最期を看取るというのは
なかなかできることではないと私は感じました。

もしもの時、万全の体制が自宅にはない。
本人が望むケアを家族は提供できているか自信もない。

それでも、いつも来てくださり本当に親身にお世話してくださった
訪問看護の看護師さんが
「これは本当に幸せなことなんですよ。ご家族の声やお孫さんの日常の音が聞こえる。
そんな環境で過ごせることが何よりもうれしいはずです。」

と言ってくれたので、不安も拭い去ることができました。

正直、10年も同居するといろいろありました。

義母は裏表はない人でしたが、やはり世代も違えば考え方も違いますし、
大喧嘩したこともあります。

わたしもポンコツ母ちゃんなので突っ込みどころ満載で
よくご助言をいただくことが多かったです←上手に言っておきます(笑)

でも、やっぱり子だくさんなので
家に義父母がいてくれたことはとっても助かりました。
私が子どもの付き添いで入院したときも、お産の時も、病気で入院したときも
義母が代わりに家のことをしてくれたりと、持ちつ持たれつでやってきたので

感謝の方が大きいと思います。

これも最後まで自宅で一緒に過ごして
見送ることができた今、思う気持ちです。

義父母のことで感じたことは

  • 人は死ぬまで自分の選択で人生を歩むということ。
  • 一人で生まれて一人で死んでいくというけど、そこにはたくさんの周りの協力が手助けがあるから
    実現するということ。
  • だから、元気なうちはしっかり働いて社会貢献や子育てなど人を助ける側になり、感謝とやりがいを感じながら生活する。
  • そして、最後は何も持ってはいけないということ。(棺にはいろいろ入れてくれますけどね)
    モノはやっぱりそんなに沢山なくてもいいのかもしれないと感じました。

お葬儀も終わり一区切りついたので、これからは夫と二人で
家一軒分の遺品の整理があります。

きれい好きできちんとされていた義母に引換え
こんなものまで置いておくの?とため込みがちだった義父(笑)

やはり生前整理いや動けるうちに老前整理、すんごく大事!

と思いました。

超長くなりましたが、最後までお読みくださった方ありがとうございました。
なんとなく残しておきたかったので、アウトプットもかねて書いてみました。


また、気持ち引き締め、徐々に活動も再開していきますので
どうぞよろしくお願いします。
ではまた♩

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